2007年01月01日
蒲原鉄道の跡を巡る その12
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
今回が蒲原鉄道編の最終回となりました。
高い位置の築堤上にあった陣ヶ峰駅のアプローチの階段は、下の方は崩れかかっていますが、何となく残っているようです。
写真を見てもらえば分かりますが、草が茂っていてよく分からない状況でした。

同行者の仮設住宅氏は、草をかき分けてホームまで上がっていきましたが、私はやめておきました。
戻ってきた彼の服には、草の種が大量について酷い状態になっていたのは言うまでもありません。

陣ヶ峰のホームは築堤の上にしっかり残っています。
手を抜いた私は道路からの写真だけになりました。
陣ヶ峰駅を出た加茂行きの列車は、すぐ道路と信越本線を鉄橋で越えていました。

道路と信越本線を越えた後は左にカーブしており、信越本線と平行する形となって加茂川を渡り、加茂駅に向かっていました。
その先の加茂川の橋梁は信越本線の複線と共用されており、3本の線路で渡っていました。
いまも同じ橋梁を使用しているそうなのですが、今回は撮影していません。
加茂駅については、蒲原鉄道のホームは別に設けられていたのですが、今は何も残っておりません。
JRの加茂駅の裏口側の左側に蒲原鉄道所有の駐車場があり、ここにホームがあったと思われます。
仮設住宅氏の記憶もさすがに20年以上経っているので曖昧になっているようです。
駆け足で蒲原鉄道の跡を巡ったので、不十分な探索に終わってしまいました。まだ保存車両もあるのでまた別の機会にでも訪れたいと思います。
この後はまた違う場所の探索のために移動です。
今回が蒲原鉄道編の最終回となりました。
高い位置の築堤上にあった陣ヶ峰駅のアプローチの階段は、下の方は崩れかかっていますが、何となく残っているようです。
写真を見てもらえば分かりますが、草が茂っていてよく分からない状況でした。

同行者の仮設住宅氏は、草をかき分けてホームまで上がっていきましたが、私はやめておきました。
戻ってきた彼の服には、草の種が大量について酷い状態になっていたのは言うまでもありません。

陣ヶ峰のホームは築堤の上にしっかり残っています。
手を抜いた私は道路からの写真だけになりました。
陣ヶ峰駅を出た加茂行きの列車は、すぐ道路と信越本線を鉄橋で越えていました。

道路と信越本線を越えた後は左にカーブしており、信越本線と平行する形となって加茂川を渡り、加茂駅に向かっていました。
その先の加茂川の橋梁は信越本線の複線と共用されており、3本の線路で渡っていました。
いまも同じ橋梁を使用しているそうなのですが、今回は撮影していません。
加茂駅については、蒲原鉄道のホームは別に設けられていたのですが、今は何も残っておりません。
JRの加茂駅の裏口側の左側に蒲原鉄道所有の駐車場があり、ここにホームがあったと思われます。
仮設住宅氏の記憶もさすがに20年以上経っているので曖昧になっているようです。
駆け足で蒲原鉄道の跡を巡ったので、不十分な探索に終わってしまいました。まだ保存車両もあるのでまた別の機会にでも訪れたいと思います。
この後はまた違う場所の探索のために移動です。
2006年12月31日
蒲原鉄道の跡を巡る その11
2006年も本日で終わりですね。(これから職場で年越しなので実感がないですけど)でもブログの方はまだ続きますのでお暇な方はおつきあいを。
それでは本題です。
狭口から加茂方向に向かって車を走らせます。
何となく線路の跡が広い道路に転用されていると思われる道に出ました。
広くなったあたりが狭口の次駅の駒場駅だったのだったのでしょうか?ちょっと分かりませんでした。
その先、道の脇に空き地が広がっている場所がありました。
雰囲気的には鉄道用地の跡地のようです。
近くに工場もあり、そこまで引き込み線でもあったような感じもします。
はっきりした確証はないですが、東加茂駅の跡だったと思われました。
更に道を進むと広い道は終わり、いかにも線路跡を転用した細い道になり、山裾をかすめていきます。さらに先に行くといきなり正面に築堤が現れました。
この先で蒲原鉄道は信越本線を跨ぐために、築堤で高度を上げていた跡でした。
直前の築堤は道路にするときに削ってしまったようです。
加茂駅に向かって進路を取り市街地をウロウロしていると、市街地の道路を跨いでいた橋の跡がありました。
左右の橋台だけが残っています。

位置的には東加茂~陣ヶ峰間になります。
橋台の近くの道から築堤の上に上がってみました。

東加茂の方を見た様子です。
線路の跡は草むらと化しております。その先にトンネルがあったはずですが確認はしていません。

家の間から反対の橋台を見ることが出来ます。
この橋台の少し向こう側が陣ヶ峰駅のあった場所になります。
それでは本題です。
狭口から加茂方向に向かって車を走らせます。
何となく線路の跡が広い道路に転用されていると思われる道に出ました。
広くなったあたりが狭口の次駅の駒場駅だったのだったのでしょうか?ちょっと分かりませんでした。
その先、道の脇に空き地が広がっている場所がありました。
雰囲気的には鉄道用地の跡地のようです。
近くに工場もあり、そこまで引き込み線でもあったような感じもします。
はっきりした確証はないですが、東加茂駅の跡だったと思われました。
更に道を進むと広い道は終わり、いかにも線路跡を転用した細い道になり、山裾をかすめていきます。さらに先に行くといきなり正面に築堤が現れました。
この先で蒲原鉄道は信越本線を跨ぐために、築堤で高度を上げていた跡でした。
直前の築堤は道路にするときに削ってしまったようです。
加茂駅に向かって進路を取り市街地をウロウロしていると、市街地の道路を跨いでいた橋の跡がありました。
左右の橋台だけが残っています。

位置的には東加茂~陣ヶ峰間になります。
橋台の近くの道から築堤の上に上がってみました。

東加茂の方を見た様子です。
線路の跡は草むらと化しております。その先にトンネルがあったはずですが確認はしていません。

家の間から反対の橋台を見ることが出来ます。
この橋台の少し向こう側が陣ヶ峰駅のあった場所になります。
2006年12月30日
蒲原鉄道の跡を巡る その10
七谷駅を出ると線路は加茂川に沿って進みます。
加茂川と山裾の間を進む線路跡は、道路からは川の対岸になるためしばらくは間近での観察は出来ませんでした。
その後、加茂市の狭口地区まで到着。この付近に狭口駅があったのでその跡を探したのでしたが、残念ながら発見できませんでした。
加茂川の支流の猿毛川という川があり、線路跡には橋が架かっていたので、その場所の前後を撮影しておきました。
狭口駅と言えば、狭き門に掛けて合格祈願の絵馬などが駅舎の中に飾られていた写真を見た覚えがあります。

写真は狭口~七谷間の七谷駅方向の線路跡を見たところです。
左側には山が迫り、画像には写っていませんが、右側に加茂川が平行しています。

加茂川支流の猿毛川に架かる橋です。
鉄道のガーター橋を再利用しているようにも見えるし掛け替えられているような気もします。
銘板の類は見つからなかったのではっきりしません。

こちらは1枚目の反対向きの狭口駅方向を見たところです。
ここからは山が遠ざかり田んぼの中を進むようになります。
加茂川と山裾の間を進む線路跡は、道路からは川の対岸になるためしばらくは間近での観察は出来ませんでした。
その後、加茂市の狭口地区まで到着。この付近に狭口駅があったのでその跡を探したのでしたが、残念ながら発見できませんでした。
加茂川の支流の猿毛川という川があり、線路跡には橋が架かっていたので、その場所の前後を撮影しておきました。
狭口駅と言えば、狭き門に掛けて合格祈願の絵馬などが駅舎の中に飾られていた写真を見た覚えがあります。

写真は狭口~七谷間の七谷駅方向の線路跡を見たところです。
左側には山が迫り、画像には写っていませんが、右側に加茂川が平行しています。

加茂川支流の猿毛川に架かる橋です。
鉄道のガーター橋を再利用しているようにも見えるし掛け替えられているような気もします。
銘板の類は見つからなかったのではっきりしません。

こちらは1枚目の反対向きの狭口駅方向を見たところです。
ここからは山が遠ざかり田んぼの中を進むようになります。
2006年12月29日
蒲原鉄道の跡を巡る その9
次にやってきたのは七谷駅の跡でした。
現役時代のこの駅は、島式ホームで列車交換があったのでした。
この駅での交換風景は結構写真を見た覚えがあります。

元の駅舎は、地元の集会場として多少の改装はされていますが残っていました。
駅舎の裏には島式ホームが草の間に残っていました。

すぐ近くに高台がありそこから駅の全景が写せます。

仮設住宅氏はこの場所から交換風景を撮影したそうです。
現役時代のこの駅は、島式ホームで列車交換があったのでした。
この駅での交換風景は結構写真を見た覚えがあります。

元の駅舎は、地元の集会場として多少の改装はされていますが残っていました。
駅舎の裏には島式ホームが草の間に残っていました。

すぐ近くに高台がありそこから駅の全景が写せます。

仮設住宅氏はこの場所から交換風景を撮影したそうです。
2006年12月28日
蒲原鉄道の跡を巡る その8
今度は冬鳥越駅の跡にやってきました。
ここの駅はすぐ横がスキー場になっており、冬になるとスキー客で賑わったと言います。
そんな場所を線路が走っていたと言うことは除雪なんかは大変だったのでしょう。
ここにも保存されている電車が2両います。

ここ冬鳥越にいたのはモハ1とモハ61の2両でした。
モハ1形はダブルルーフの古い車両です。
ここにも案内板があったので内容を記入しておきます。
県内最古の木造電車(モハ1号)
蒲原鉄道は大正12年10月20日に五泉~村松間4.2㎞の運行を開始し、昭和5年7月22日には村松~東加茂間15.2㎞を開通、昭和5年10月20日には東加茂~加茂間2.5㎞を開通し、全線21.9㎞になります。その後、昭和60年3月31日をもって加茂~村松間17.7㎞を廃止、平成11年10月3日には五泉~村松間4.2㎞を廃止し、77年間続いた鉄道の使命を終えました。
日本の鉄道車両は、大正末期から昭和初期にかけて、ようやく木製から半鋼製に代わってきました。ここに展示するモハ1号は大正12年蒲田車輌製造のもので誕生してからわずか4年後に半鋼製時代を迎えます。
当初は五泉~村松間、その後昭和5年から昭和29年まで五泉~加茂間で運行され地域発展につくしました。
形式:モハ1
全長:11.455m 全幅:2.692m 高さ:4.064m
定員:66人 自重:20.03t
加茂市:市指定文化財

モハ1形の車内も自由に見ることが出来ます。
残念ながら自由すぎで、シートモケットは所々切れてしまっていました。
もうちょっと管理しないとこの貴重な電車はボロボロになってしまいそうです。
(整備してきれいな状態にしただけにもったいないです。)

こちらはモハ61です。
こちらも案内板の内容を記入しておきます。
半鋼製電動客車(モハ61号)
この電車は昭和15年に日本鉄道自動車(株)が武蔵野鉄道の半鋼製制御車として製造したもので、昭和初期の私鉄向きの標準型電車です。昭和33年1月に蒲原鉄道に譲渡する前に電動車に改造されました。
昭和33年から昭和60年に村松~加茂間が廃止されるまでと、その後平成11年に五泉~村松間が廃止されるまで運行され「モハ1号」とともに地域発展につくしました。
この種類の電車は、昭和11年頃から16年頃にかけて多数製造されましたが、比較的新しい時代の製造のためか、製造以来60年を経過した現在、保存車両は全国的に見てもかなり数が少なくなっています。
形式:モハ61
全長:17.000m 全幅:2.725m 高さ:4.110m
定員:110人 自重:27.45t
加茂市:市指定文化財

モハ1とモハ61が仲良く並んでいるところです。
しかし蒲原鉄道は保存車両が多いですね。
それだけ地元の人に愛着を持たれていたと言うことでしょうか。
ここの駅はすぐ横がスキー場になっており、冬になるとスキー客で賑わったと言います。
そんな場所を線路が走っていたと言うことは除雪なんかは大変だったのでしょう。
ここにも保存されている電車が2両います。

ここ冬鳥越にいたのはモハ1とモハ61の2両でした。
モハ1形はダブルルーフの古い車両です。
ここにも案内板があったので内容を記入しておきます。
県内最古の木造電車(モハ1号)
蒲原鉄道は大正12年10月20日に五泉~村松間4.2㎞の運行を開始し、昭和5年7月22日には村松~東加茂間15.2㎞を開通、昭和5年10月20日には東加茂~加茂間2.5㎞を開通し、全線21.9㎞になります。その後、昭和60年3月31日をもって加茂~村松間17.7㎞を廃止、平成11年10月3日には五泉~村松間4.2㎞を廃止し、77年間続いた鉄道の使命を終えました。
日本の鉄道車両は、大正末期から昭和初期にかけて、ようやく木製から半鋼製に代わってきました。ここに展示するモハ1号は大正12年蒲田車輌製造のもので誕生してからわずか4年後に半鋼製時代を迎えます。
当初は五泉~村松間、その後昭和5年から昭和29年まで五泉~加茂間で運行され地域発展につくしました。
形式:モハ1
全長:11.455m 全幅:2.692m 高さ:4.064m
定員:66人 自重:20.03t
加茂市:市指定文化財

モハ1形の車内も自由に見ることが出来ます。
残念ながら自由すぎで、シートモケットは所々切れてしまっていました。
もうちょっと管理しないとこの貴重な電車はボロボロになってしまいそうです。
(整備してきれいな状態にしただけにもったいないです。)

こちらはモハ61です。
こちらも案内板の内容を記入しておきます。
半鋼製電動客車(モハ61号)
この電車は昭和15年に日本鉄道自動車(株)が武蔵野鉄道の半鋼製制御車として製造したもので、昭和初期の私鉄向きの標準型電車です。昭和33年1月に蒲原鉄道に譲渡する前に電動車に改造されました。
昭和33年から昭和60年に村松~加茂間が廃止されるまでと、その後平成11年に五泉~村松間が廃止されるまで運行され「モハ1号」とともに地域発展につくしました。
この種類の電車は、昭和11年頃から16年頃にかけて多数製造されましたが、比較的新しい時代の製造のためか、製造以来60年を経過した現在、保存車両は全国的に見てもかなり数が少なくなっています。
形式:モハ61
全長:17.000m 全幅:2.725m 高さ:4.110m
定員:110人 自重:27.45t
加茂市:市指定文化財

モハ1とモハ61が仲良く並んでいるところです。
しかし蒲原鉄道は保存車両が多いですね。
それだけ地元の人に愛着を持たれていたと言うことでしょうか。
2006年12月27日
蒲原鉄道の跡を巡る その7
村松城址公園からしばらくは線路跡は多くの武分が道路になっている感じになっています。(正確な位置が分からないのであくまでもそんな感じ)
次に寄ったのは高松~土倉間の築堤でした。
この区間は、一段高くなった国道から外れて線路がありました。山裾を築堤が残っていました。


築堤の途中にはガーター橋も残っています。

築堤の上から土倉の方を見たところです。
築堤は雑草は生えているもののバラストは残っていました。
次に寄ったのは高松~土倉間の築堤でした。
この区間は、一段高くなった国道から外れて線路がありました。山裾を築堤が残っていました。


築堤の途中にはガーター橋も残っています。

築堤の上から土倉の方を見たところです。
築堤は雑草は生えているもののバラストは残っていました。
2006年12月26日
蒲原鉄道の跡を巡る その6
一旦車に戻って、線路が合流した道路を辿っていきます。
しばらく走っていると左側に蒲原鉄道の車両を発見しました。
場所は村松城址公園と言うところです。

ここに保存されている車両はモハ11でした。
モハ11の脇に案内板がありましたので、その内容を記入しておきます。
この電車は、大正12年に蒲原鉄道株式会社が磐越西線・五泉駅から信越本線・加茂駅までの21.9㎞が開通した当時から昭和60年まで、走行してきました。
昭和10年頃は、旅客をはじめ穀物、織物、鉱石等の貨物を輸送し、沿線住民の足として最も活躍、貢献しました。
昭和60年3月、加茂・村松間17.7㎞が廃止されバス輸送に変革したので、往時を懐古するとともに、ここ城址公園の一角が軌道敷だったことから、この地に展示し後世に伝えるものです。
形式:モハ11 自重:19.2t 高さ:4.0m
定員:82人 長さ:12.4m 前照灯:100V200W
座席数:34人 巾:2.6m
案内文にある軌道敷きは、写真では電車の後ろ側の道路の手前を併走していたと思われます。

電車のすぐ近くには、踏切警報機と遮断機が残っていました。
遮断機の向きから移設されたものではなく、この位置で使用していたものではないかと思われます。
しばらく走っていると左側に蒲原鉄道の車両を発見しました。
場所は村松城址公園と言うところです。

ここに保存されている車両はモハ11でした。
モハ11の脇に案内板がありましたので、その内容を記入しておきます。
この電車は、大正12年に蒲原鉄道株式会社が磐越西線・五泉駅から信越本線・加茂駅までの21.9㎞が開通した当時から昭和60年まで、走行してきました。
昭和10年頃は、旅客をはじめ穀物、織物、鉱石等の貨物を輸送し、沿線住民の足として最も活躍、貢献しました。
昭和60年3月、加茂・村松間17.7㎞が廃止されバス輸送に変革したので、往時を懐古するとともに、ここ城址公園の一角が軌道敷だったことから、この地に展示し後世に伝えるものです。
形式:モハ11 自重:19.2t 高さ:4.0m
定員:82人 長さ:12.4m 前照灯:100V200W
座席数:34人 巾:2.6m
案内文にある軌道敷きは、写真では電車の後ろ側の道路の手前を併走していたと思われます。

電車のすぐ近くには、踏切警報機と遮断機が残っていました。
遮断機の向きから移設されたものではなく、この位置で使用していたものではないかと思われます。
2006年12月25日
蒲原鉄道の跡を巡る その5
改めて村松駅から西村松駅に向かっていた線路の路を辿ってみます。
村松駅を出た線路は右に急なカーブを切ります。線路の跡は舗装されて自転車置き場に利用されていました。
その先に踏切があり道路と交差していました。

切の跡にはコンクリートが斜めに道路を横切っており、踏切の名残になのかもしれません。
踏切の先の線路跡はレールや架線は撤去されているものの、所々にバラストや枕木が残っていました。

写真のあたりは枕木もなくなっていますが、近くの民家で再利用されているようです。

枕木が残っている場所もあります。

しばらく歩いていくと道路と合流して線路跡は分からなくなってしまいました。
村松駅を出た線路は右に急なカーブを切ります。線路の跡は舗装されて自転車置き場に利用されていました。
その先に踏切があり道路と交差していました。

切の跡にはコンクリートが斜めに道路を横切っており、踏切の名残になのかもしれません。
踏切の先の線路跡はレールや架線は撤去されているものの、所々にバラストや枕木が残っていました。

写真のあたりは枕木もなくなっていますが、近くの民家で再利用されているようです。

枕木が残っている場所もあります。

しばらく歩いていくと道路と合流して線路跡は分からなくなってしまいました。
2006年12月24日
蒲原鉄道の跡を巡る その4
再び村松駅までやってきた私達は、先に廃止された区間の村松~加茂間の探索を開始しました。
まず手始めに村松からまでの西村松までの区間を歩くつもりでした。
とりあえず、近くのコンビニに寄って飲み物を確保した時のことです。
ふと、コンビニの裏を覗くとここにも保存車両が置いてありました。
実はこのコンビニはこの日の朝、最初に村松駅まで来たときにも寄っていたけど全く気が付きませんでした。
ここにいた車両は2両。電気機関車のED1とモハ31でした。

コンビニの裏のED1。

ED1の社紋アップ。

モハ31は引きが取れなくて苦しい構図。
この車両がある場所の隣の建物は、蒲原鉄道が現役の時代からあった建物です。
村松駅の構内の外れにあった留置線が1本だけ残っている形となっていました。
まず手始めに村松からまでの西村松までの区間を歩くつもりでした。
とりあえず、近くのコンビニに寄って飲み物を確保した時のことです。
ふと、コンビニの裏を覗くとここにも保存車両が置いてありました。
実はこのコンビニはこの日の朝、最初に村松駅まで来たときにも寄っていたけど全く気が付きませんでした。
ここにいた車両は2両。電気機関車のED1とモハ31でした。

コンビニの裏のED1。

ED1の社紋アップ。

モハ31は引きが取れなくて苦しい構図。
この車両がある場所の隣の建物は、蒲原鉄道が現役の時代からあった建物です。
村松駅の構内の外れにあった留置線が1本だけ残っている形となっていました。
2006年12月22日
蒲原鉄道の跡を巡る その3
村松変電所跡から村松駅へ到着しました。
ここは鉄道が無くなった後も、蒲鉄小型バスの車庫や乗り場があります。
そんなわけで鉄道線はなくなっていますが、村松“駅”なのでした。
村松駅には昔も今も本社のビルが併設されています。(全体の写真撮ったつもりだったけど撮ってなかったのです。)

村松駅の駅舎は村松駅の表示も蒲原鉄道の社紋もしっかり残っています。

駅の道路に面する側はバス乗り場となっています。
バス乗り場の後ろ側に鉄道線のホームがあったのです。

そのホームがあった場所は空き地となっており、タクシーが休憩中でした。
この空き地に島式ホームがあったのでした。
この後は、磐西・只見ぐるり一周号撮影のために磐越西線に向かって移動です。
ここは鉄道が無くなった後も、蒲鉄小型バスの車庫や乗り場があります。
そんなわけで鉄道線はなくなっていますが、村松“駅”なのでした。
村松駅には昔も今も本社のビルが併設されています。(全体の写真撮ったつもりだったけど撮ってなかったのです。)

村松駅の駅舎は村松駅の表示も蒲原鉄道の社紋もしっかり残っています。

駅の道路に面する側はバス乗り場となっています。
バス乗り場の後ろ側に鉄道線のホームがあったのです。

そのホームがあった場所は空き地となっており、タクシーが休憩中でした。
この空き地に島式ホームがあったのでした。
この後は、磐西・只見ぐるり一周号撮影のために磐越西線に向かって移動です。
2006年12月21日
蒲原鉄道の跡を巡る その2
今泉駅から村松駅に向かって車を走らせると、道路の左側に電車があるのを発見しました。
この場所は蒲原鉄道の村松変電所だった地点のようです。
入り口の案内板には、む蒲原鉄道の廃止を惜しんだ地元の方が私費を投じて保存をしたとありました。

ちなみに線路の跡とは直角の向きに電車は置いてあります。
ここにいたのはモハ71+クハ10の2両です。
保存状態は屋根があるため悪くはありません。でも写真を撮影するには柱が邪魔になってしまいます。

この変電所跡の敷地の周りには、蒲原鉄道で使用していた架線柱が並んでおり、一風変わった風景となっていました。

モハ71側から撮った屋根と電車の様子です。
この屋根も蒲原鉄道で使用していたものと思いますが、詳細は分かりません。
この場所は蒲原鉄道の村松変電所だった地点のようです。
入り口の案内板には、む蒲原鉄道の廃止を惜しんだ地元の方が私費を投じて保存をしたとありました。

ちなみに線路の跡とは直角の向きに電車は置いてあります。
ここにいたのはモハ71+クハ10の2両です。
保存状態は屋根があるため悪くはありません。でも写真を撮影するには柱が邪魔になってしまいます。

この変電所跡の敷地の周りには、蒲原鉄道で使用していた架線柱が並んでおり、一風変わった風景となっていました。

モハ71側から撮った屋根と電車の様子です。
この屋根も蒲原鉄道で使用していたものと思いますが、詳細は分かりません。
2006年12月20日
蒲原鉄道の跡を巡る その1
11月4日、撮影旅行の二日目にもDD53ばんえつ物語号は運転があります。ばんえつ物語号の前に国鉄色気動車による磐越西線・只見線を回る列車が運転されていました。(列車名忘れてしまった)
その列車が五泉の駅を通過するのは9時頃だったので、それまでの時間を利用して、蒲原鉄道の廃線跡をちょっと見に行くことになりました。
五泉のビジネスホテルを出発して五泉の市街地を抜け村松へ向かいます。
五泉~村松間は蒲原鉄道で最後まで残っていた区間でしたが、1999年に廃止となっています。
その村松までの区間は、五泉駅の付近を覗いてほとんどが直線で道路と平行していました。
村松へ向かう道路を走っていると、今泉というバス停がありました。

この地点が今泉駅があった場所でした。
村松に向かって道路の左側に蒲原鉄道は併走していました。
その跡地は草むらとして残っています。

写真は今泉のバス停付近から村松方向を見たところです。
この草むらが線路跡なのでした。
その列車が五泉の駅を通過するのは9時頃だったので、それまでの時間を利用して、蒲原鉄道の廃線跡をちょっと見に行くことになりました。
五泉のビジネスホテルを出発して五泉の市街地を抜け村松へ向かいます。
五泉~村松間は蒲原鉄道で最後まで残っていた区間でしたが、1999年に廃止となっています。
その村松までの区間は、五泉駅の付近を覗いてほとんどが直線で道路と平行していました。
村松へ向かう道路を走っていると、今泉というバス停がありました。

この地点が今泉駅があった場所でした。
村松に向かって道路の左側に蒲原鉄道は併走していました。
その跡地は草むらとして残っています。

写真は今泉のバス停付近から村松方向を見たところです。
この草むらが線路跡なのでした。
