2008年09月06日
2008年09月05日
2008年09月04日
2008年09月02日
2008年09月01日
2008年富山撮影旅行 その46
氷見線から富山ライトレールの岩瀬浜駅に向かうことになり、ついでに射水線の廃線跡を軽く探索していきます。
富山新港が建設されたことにより富山地方鉄道の射水線は分断されることになりました。
それは1966年の4月であり、42年前の事になります。
分断された高岡側は、加越能鉄道に譲渡されて新湊港線となり、港になってしまった部分は県により渡船での連絡がおこなわれるようになりました。
乗り換えの不便のため射水線の乗客は減り、最終的に1980年4月に廃止となっています。

現在も県営の渡船は運航されており、富山側の堀岡側の乗船場近くに射水線の遺構が残っています。
元々新港を掘削する前は川があったそうで、並行する道路も射水線もそれぞれが橋で川を渡っていたのです。
写真はその橋台の跡です。

橋台から対岸を見ると堤防があり、その向こうに当時の橋脚が1脚だけ残っています。
正面には巨大な建造物が建設されています。
これは新たに建設中の道路で、港の開口部を一跨ぎしています。
この道路が開通すると渡船も無くなってしまうのかもしれません。
写真の右側に見えている帆船は海王丸パークにある海王丸です。
橋脚跡50メートルほど右側に並行していた道路がありました。
こちらに架かっていた橋は何故か1スパンだけ残されていて、何かを訴えているかのようです。

橋脚から橋台の方を見たところです。
遊具の向こう側に橋台跡があります。
富山新港が建設されたことにより富山地方鉄道の射水線は分断されることになりました。
それは1966年の4月であり、42年前の事になります。
分断された高岡側は、加越能鉄道に譲渡されて新湊港線となり、港になってしまった部分は県により渡船での連絡がおこなわれるようになりました。
乗り換えの不便のため射水線の乗客は減り、最終的に1980年4月に廃止となっています。
現在も県営の渡船は運航されており、富山側の堀岡側の乗船場近くに射水線の遺構が残っています。
元々新港を掘削する前は川があったそうで、並行する道路も射水線もそれぞれが橋で川を渡っていたのです。
写真はその橋台の跡です。
橋台から対岸を見ると堤防があり、その向こうに当時の橋脚が1脚だけ残っています。
正面には巨大な建造物が建設されています。
これは新たに建設中の道路で、港の開口部を一跨ぎしています。
この道路が開通すると渡船も無くなってしまうのかもしれません。
写真の右側に見えている帆船は海王丸パークにある海王丸です。
橋脚跡50メートルほど右側に並行していた道路がありました。
こちらに架かっていた橋は何故か1スパンだけ残されていて、何かを訴えているかのようです。
橋脚から橋台の方を見たところです。
遊具の向こう側に橋台跡があります。
2008年08月29日
2008年08月28日
2008年富山撮影旅行 その42
公園の先で途切れた場所は川があり、小さな橋で渡っていたのですが、跡形もなく消えています。
川の先は住宅が建設されている最中で、その先は再び道路となっていました。
写真は、その道路から能町駅側を見たところです。
同じ場所から今度は工場の方向を見ています。
写真の真ん中に写っている水色の車が走っているところが、万葉線が通っている道路となっており、ちょうど平面交差があった場所でした。
平面交差は完全に撤去されていました。
工場側を向いて撮影していますが、万葉線より先の武分は線路が剥がされただけで、線路跡がはっきり残っています。
能町駅から万葉線までの区間がすっかり景色を変えているのと対照的でした。
今回撮影した時より4年前は、専用線が廃止となってそんなに経っていなかったため平面交差が残っていました。
この場所を通る万葉線の電車を撮影していたのも良い想い出です。
写真は4年前の様子、能町駅に向かって撮影していますが、まるで景色が変わっているのでした。
2008年08月27日
2008年08月18日
2007年07月09日
勝田駅の日立製作所水戸工場専用線ホーム跡
勝田駅からは少し離れた場所の日立製作所水戸工場へ専用線が延びています。
それが日立製作所水戸工場専用線であり、4.4㎞あるそうです。
以前は、その専用線を利用して従業員の通勤輸送のために専用列車が走っていました。
廃止になったのは14年前の1993年8月頃であり、その後勝田駅は橋上駅舎に改築されていますが、まだ名残が残っていました。

勝田駅の改札を抜け左手側の階段を下り、駅舎の外に出ます。
今度は右手に行くと、日立製作所水戸工場への通勤列車用のホームが残っています。

ホームの向こうは電留線が数本並んでおり、その先に常磐線のホームがあります。

橋上のコンコースはガラス張りなので上から見てもホームの跡が分かります。
錆びた線路も残っているのが分かります。
それが日立製作所水戸工場専用線であり、4.4㎞あるそうです。
以前は、その専用線を利用して従業員の通勤輸送のために専用列車が走っていました。
廃止になったのは14年前の1993年8月頃であり、その後勝田駅は橋上駅舎に改築されていますが、まだ名残が残っていました。

勝田駅の改札を抜け左手側の階段を下り、駅舎の外に出ます。
今度は右手に行くと、日立製作所水戸工場への通勤列車用のホームが残っています。

ホームの向こうは電留線が数本並んでおり、その先に常磐線のホームがあります。

橋上のコンコースはガラス張りなので上から見てもホームの跡が分かります。
錆びた線路も残っているのが分かります。
2007年06月18日
ちょっとだけ熊延鉄道廃線跡
2005年の夏は九州へ撮影旅行に行っています。
メンバーはいつもの仮設住宅氏と巻き添えの先輩です。
もっとも先輩の方は出来たばかりの九州新幹線に乗ったりはやとの風に乗ったりしに行ってしまったので別行動でした。
初日は仮設住宅氏と熊延鉄道の廃線跡と熊本電鉄を探索するつもりでしたが、珍しく観光してしまったので、熊延鉄道の廃線跡を訪ねて終了となったのでした。

熊延鉄道の釈迦院~砥用間だと思われる場所です。
画面の真ん中を右から左へ走っている道路が線路跡を転用した道路です。
左が砥用方面です。

先ほどの線路跡の道を砥用方向に走ると鉄橋があります。
この鉄橋は熊延鉄道で使用していたものを転用しています。
橋の現在の名前は「しもながとみばし」です。
鉄橋には、製造銘盤が残っているおり「熊延鉄道株式会社 昭和六年八月」「福岡県若松市今村製作所製作」とあるようですが、確認していません。

熊延鉄道は名前のごとく、熊本と延岡を結ぶ鉄道として計画されていましたが、未完成に終わっています。
終点だった砥用駅には駅舎が残っており、熊本バスの乗務員休憩所として使用されているようです。
建物自体は老朽化が進んでおり、あまり長く持たないのではないかと思いました。
メンバーはいつもの仮設住宅氏と巻き添えの先輩です。
もっとも先輩の方は出来たばかりの九州新幹線に乗ったりはやとの風に乗ったりしに行ってしまったので別行動でした。
初日は仮設住宅氏と熊延鉄道の廃線跡と熊本電鉄を探索するつもりでしたが、珍しく観光してしまったので、熊延鉄道の廃線跡を訪ねて終了となったのでした。

熊延鉄道の釈迦院~砥用間だと思われる場所です。
画面の真ん中を右から左へ走っている道路が線路跡を転用した道路です。
左が砥用方面です。

先ほどの線路跡の道を砥用方向に走ると鉄橋があります。
この鉄橋は熊延鉄道で使用していたものを転用しています。
橋の現在の名前は「しもながとみばし」です。
鉄橋には、製造銘盤が残っているおり「熊延鉄道株式会社 昭和六年八月」「福岡県若松市今村製作所製作」とあるようですが、確認していません。

熊延鉄道は名前のごとく、熊本と延岡を結ぶ鉄道として計画されていましたが、未完成に終わっています。
終点だった砥用駅には駅舎が残っており、熊本バスの乗務員休憩所として使用されているようです。
建物自体は老朽化が進んでおり、あまり長く持たないのではないかと思いました。
2007年06月04日
三重・和歌山・愛知撮影旅行 その28
3日目の午前中は墓参りと何故か模型屋へ行ったのです。
紀伊勝浦駅付近の模型屋に古いプラモデルがいっぱいあると教えてもらったので、特に予定がなかったため仮設住宅氏にお付き合いして行ったのでした。
店に着いてみると、プラモデルだけでなく色々な物が売られています。
鉄道模型も売っていたので私も覗いたのですが、関東ではとっくに売り切れている製品が普通に売っており、思わず買ってしまいました。
仮設住宅氏は20年ほど前の古い製品(学研とかの製品もあった)があったので色々買い込んでいました。
その後、十津川温泉方向に車を走らせ、昼食を食べようと道の駅に寄ったら大きな地震が起こりました。(津とかで震度5)
和歌山辺りは震度3~4ぐらいでしたが、特に影響はありません。
再び車を走らせ、どんどん山の中に進んでいきました。
地名で言うと和歌山県田辺市本宮町静川付近になるのですが、林用軌道だか、森林軌道だかの跡まで行っています。
手持ちの資料では全然分からないので、仮設住宅氏が撮影した写真だけ載せておきます。
仮設住宅さん説明よろしく。

軌道跡のスタート地点。

残っている橋台。

トンネル。

トンネルと軌道跡。
紀伊勝浦駅付近の模型屋に古いプラモデルがいっぱいあると教えてもらったので、特に予定がなかったため仮設住宅氏にお付き合いして行ったのでした。
店に着いてみると、プラモデルだけでなく色々な物が売られています。
鉄道模型も売っていたので私も覗いたのですが、関東ではとっくに売り切れている製品が普通に売っており、思わず買ってしまいました。
仮設住宅氏は20年ほど前の古い製品(学研とかの製品もあった)があったので色々買い込んでいました。
その後、十津川温泉方向に車を走らせ、昼食を食べようと道の駅に寄ったら大きな地震が起こりました。(津とかで震度5)
和歌山辺りは震度3~4ぐらいでしたが、特に影響はありません。
再び車を走らせ、どんどん山の中に進んでいきました。
地名で言うと和歌山県田辺市本宮町静川付近になるのですが、林用軌道だか、森林軌道だかの跡まで行っています。
手持ちの資料では全然分からないので、仮設住宅氏が撮影した写真だけ載せておきます。
仮設住宅さん説明よろしく。

軌道跡のスタート地点。

残っている橋台。

トンネル。

トンネルと軌道跡。
2007年06月01日
三重・和歌山・愛知撮影旅行 その25
国見山石灰鉱業の線路は昔、上部軌道・中部軌道・下部軌道に分かれており、今回訪ねた部分は下部軌道でした。
現在は全てベルトコンベアによる輸送に切り替わっています。

線路を辿っていった終点には、トワイライトゾーンにもあった通り、半分砂に埋もれた機関車が見えました。
この写真は構内が作業中だったので、車に乗ったまま撮っています。

構内が作業中だったため、近くに車を停める場所が無く仮設住宅氏だけ降りて写真を撮ってきました。
砂に埋もれているのは、新日鉄広畑からきた50t機のD-507号機でした。

もう1両の機関車であるD-505号機は、ベルトコンベアの脇にあった事務所脇に放置されています。
以前はホッパ車も放置されていたようですが、行った時には見掛けませんでした。
現在は全てベルトコンベアによる輸送に切り替わっています。

線路を辿っていった終点には、トワイライトゾーンにもあった通り、半分砂に埋もれた機関車が見えました。
この写真は構内が作業中だったので、車に乗ったまま撮っています。

構内が作業中だったため、近くに車を停める場所が無く仮設住宅氏だけ降りて写真を撮ってきました。
砂に埋もれているのは、新日鉄広畑からきた50t機のD-507号機でした。

もう1両の機関車であるD-505号機は、ベルトコンベアの脇にあった事務所脇に放置されています。
以前はホッパ車も放置されていたようですが、行った時には見掛けませんでした。
2007年05月31日
三重・和歌山・愛知撮影旅行 その25
伊勢神宮を観光した後は三重県南東町に向かいました。
南東町には国見山三重鉱山があり、石灰石・砕石を算出しています。
以前は算出した石灰石を専用鉄道で、港まで送り船に積み替えて輸送していました。
トワイライトゾーンマニュアルにも2回紹介されている場所なので様子を見に行ってみたのです。

海沿いの国道を走っていると船への積み出し施設と線路を発見しました。
海に向かって突き出ている積み出し施設にも線路が続いています。

積み出し施設の先端です。
ここから船に積み込むのですが、土曜日のためか稼働していませんでした。

線路を辿って行った途中の景色です。
石灰石の輸送は完全にベルトコンベアに移行しており、この辺りのベルトコンベアは山をトンネルで抜けているので、線路とは別のルートとなっています。
海に近い方は民家があるので、騒音対策のためではないかと推測しています。

民家もなくなった辺りから、別のルートだったベルトコンベアが線路の上に移ってきました。
海の方を見ての写真です。(仮設住宅氏撮影)
南東町には国見山三重鉱山があり、石灰石・砕石を算出しています。
以前は算出した石灰石を専用鉄道で、港まで送り船に積み替えて輸送していました。
トワイライトゾーンマニュアルにも2回紹介されている場所なので様子を見に行ってみたのです。

海沿いの国道を走っていると船への積み出し施設と線路を発見しました。
海に向かって突き出ている積み出し施設にも線路が続いています。

積み出し施設の先端です。
ここから船に積み込むのですが、土曜日のためか稼働していませんでした。

線路を辿って行った途中の景色です。
石灰石の輸送は完全にベルトコンベアに移行しており、この辺りのベルトコンベアは山をトンネルで抜けているので、線路とは別のルートとなっています。
海に近い方は民家があるので、騒音対策のためではないかと推測しています。

民家もなくなった辺りから、別のルートだったベルトコンベアが線路の上に移ってきました。
海の方を見ての写真です。(仮設住宅氏撮影)
2007年05月03日
真岡(長倉)線未成線を歩く その5
車で鳥居の地点までやってきました。
歩いてみた感じでは車が走れそうだったので、そのまま未成線跡に乗り入れてドライブです。

写真は、鳥居の横から終点方向を見ています。

前進していくうちに、山裾を走っていた路盤は両側に畑が広がる場所を通るようになりました。
この辺りは完全に農作業用に使用されています。
写真前方の右の山が接近してくる辺りが、下野中川駅予定地のようです。
その部分は路盤も広がっていました。

路盤は、下野中川駅予定地を過ぎると道路とぶつかっています。
写真は道路の方から下野中川駅方向を見ています。

道路を渡ると地元の集会場があり、路盤はその前を通って先の林で終了していました。
ここが工事区間の終点だったようで、少ししか見ていないけど、その先の痕跡は発見できませんでした。
歩いてみた感じでは車が走れそうだったので、そのまま未成線跡に乗り入れてドライブです。

写真は、鳥居の横から終点方向を見ています。

前進していくうちに、山裾を走っていた路盤は両側に畑が広がる場所を通るようになりました。
この辺りは完全に農作業用に使用されています。
写真前方の右の山が接近してくる辺りが、下野中川駅予定地のようです。
その部分は路盤も広がっていました。

路盤は、下野中川駅予定地を過ぎると道路とぶつかっています。
写真は道路の方から下野中川駅方向を見ています。

道路を渡ると地元の集会場があり、路盤はその前を通って先の林で終了していました。
ここが工事区間の終点だったようで、少ししか見ていないけど、その先の痕跡は発見できませんでした。
2007年05月02日
真岡(長倉)線未成線を歩く その4
トンネルを抜けてしばらく歩いた後、一旦車まで戻って先の区間まで移動してみました。

築堤は少し高い場所を走っており、道路は築堤の下を短いトンネルで抜けています。
この付近に車を停めて、再び築堤に上がり探索を続行です。

道路の真上は草が生い茂り、かろうじて人が歩けるだけの状態となっています。

狭かったのは道路の上だけで、その先は路盤の幅がそのままの状態で残っています。
しばらく進むと左側に鳥居があり、そこまでで行って再び車に戻りました。

築堤は少し高い場所を走っており、道路は築堤の下を短いトンネルで抜けています。
この付近に車を停めて、再び築堤に上がり探索を続行です。

道路の真上は草が生い茂り、かろうじて人が歩けるだけの状態となっています。

狭かったのは道路の上だけで、その先は路盤の幅がそのままの状態で残っています。
しばらく進むと左側に鳥居があり、そこまでで行って再び車に戻りました。
2007年05月01日
真岡(長倉)線未成線を歩く その3

トンネル内の様子はこんな感じです。
もっともフラッシュ炊いたから見えているのであって、実際は真っ暗で何も見えなかったのでした。
暗闇を歩いていくと、前方から「うわっ!」と言う声が聞こえてきました。
先行した仮設住宅氏が泥になっている部分に踏み込んだのです。
実際はぬかるんでいるけど大したことはないのですが、やはり見えないので慎重に進みます。
真ん中付近に直径1メートル程の円形の構造物があったのですが、何のためにあるのか分かりません。

何事もなく反対側の出口を抜けて振り返るとこんな感じでした。

トンネルを抜けると築堤になり、しばらく歩いたところで、振り返った景色です。
左側が築堤、築堤の奥が抜けてきたトンネルです。
築堤の脇には動物避けだと思われる電線が張ってありますので、触らないように注意が必要です。
2007年04月30日
真岡(長倉)線未成線を歩く その2
切り通しの先にどんどん進んで行くと、未成線跡と道路が分かれそのまま跡を進むと柵があり、車では進めなくなります。

車を置いて徒歩でその先に向かいます。
その先は砂利も無くなっており、草の上を進むことになりました。

未成線の路盤の脇に「工」の字の境界標を発見しました。
国鉄の建設用地だった証しです。

車を置いた場所からちょっと緩い右カーブを進むとトンネルが現れました。
トンネルの中がカーブしているらしく、向こう側の明かりは見えず、中は当然真っ暗です。
懐中電灯も持っていないのに、探検隊気分の私達はトンネルに侵入しました。

車を置いて徒歩でその先に向かいます。
その先は砂利も無くなっており、草の上を進むことになりました。

未成線の路盤の脇に「工」の字の境界標を発見しました。
国鉄の建設用地だった証しです。

車を置いた場所からちょっと緩い右カーブを進むとトンネルが現れました。
トンネルの中がカーブしているらしく、向こう側の明かりは見えず、中は当然真っ暗です。
懐中電灯も持っていないのに、探検隊気分の私達はトンネルに侵入しました。
2007年04月29日
真岡(長倉)線未成線を歩く その1
昨日のブログに引き続き4月1日ネタの続きです。
筑波鉄道真壁駅跡を見た後、用事のあるG氏を水戸線の新治駅で降ろし、残った3人で真岡鉄道の北真岡ー西田井間で下りのSL重連列車を撮影、さらに茂木駅まで移動してSL列車の構内入れ替えを撮影しています。
上りのSLまでは少し時間があったので、国鉄真岡線の延長予定区間が途中まで建設されていたので、探索することにしました。
この未成線は、茂木駅から水郡線の玉川村までの路線として計画され、途中長倉という集落を経ており、建設の終点をとりあえず長倉にしたため、長倉線という工事線名が付いています。
SLの入替えを茂木駅で撮影後、未成線の築堤を横に見ながら少し先の区間まで移動します。
未成線跡は築堤の先、道路に吸収されたりする区間もありますが、終点に向かって右側に併走しています。
道路と一旦離れて再び道路と交差する場所が小井戸地区にあり、その地点から道路とは別ルートになります。
未成線跡は農道として利用されているようで、砂利道になりますがあまり草も生えていません。

道路から分かれて少し進むと、川を渡るためにコンクリー橋が現れます。

コンクリート橋の先で山裾に接近しており、切り通しで未成線跡は抜けています。

コンクリート橋の脇の一段高いところからだと、築堤が続いているのが分かります。
右側が茂木方面になります。
筑波鉄道真壁駅跡を見た後、用事のあるG氏を水戸線の新治駅で降ろし、残った3人で真岡鉄道の北真岡ー西田井間で下りのSL重連列車を撮影、さらに茂木駅まで移動してSL列車の構内入れ替えを撮影しています。
上りのSLまでは少し時間があったので、国鉄真岡線の延長予定区間が途中まで建設されていたので、探索することにしました。
この未成線は、茂木駅から水郡線の玉川村までの路線として計画され、途中長倉という集落を経ており、建設の終点をとりあえず長倉にしたため、長倉線という工事線名が付いています。
SLの入替えを茂木駅で撮影後、未成線の築堤を横に見ながら少し先の区間まで移動します。
未成線跡は築堤の先、道路に吸収されたりする区間もありますが、終点に向かって右側に併走しています。
道路と一旦離れて再び道路と交差する場所が小井戸地区にあり、その地点から道路とは別ルートになります。
未成線跡は農道として利用されているようで、砂利道になりますがあまり草も生えていません。

道路から分かれて少し進むと、川を渡るためにコンクリー橋が現れます。

コンクリート橋の先で山裾に接近しており、切り通しで未成線跡は抜けています。

コンクリート橋の脇の一段高いところからだと、築堤が続いているのが分かります。
右側が茂木方面になります。
2007年04月28日
筑波鉄道真壁駅跡の様子
鹿島鉄道の最終日翌日の4月1日に、真岡鉄道のSL重連を撮影したことは以前のブログに載せました。
本日は、その日の他のネタです。
石岡の宿を出発して真岡鉄道へ向かう途中で、筑波鉄道の廃線跡と交差します。
やはり廃線跡を見掛けたら、寄っていくのが当然とばかりに真壁駅跡に寄ってみました。

真壁駅には桜の木があり、線路が無くなった今でも花を咲かしていました。

この駅のホームは2本とも残っていました。
主要駅だったので、この駅で折り返す列車もあったようです。

筑波鉄道の廃線跡は全線ではないですが、岩瀬土浦自転車道として整備されています。
真壁駅の地点は真壁休憩所として整備されていました。
休憩所の看板は意識的なのか、駅名標に似た形をしています。
本日は、その日の他のネタです。
石岡の宿を出発して真岡鉄道へ向かう途中で、筑波鉄道の廃線跡と交差します。
やはり廃線跡を見掛けたら、寄っていくのが当然とばかりに真壁駅跡に寄ってみました。

真壁駅には桜の木があり、線路が無くなった今でも花を咲かしていました。

この駅のホームは2本とも残っていました。
主要駅だったので、この駅で折り返す列車もあったようです。

筑波鉄道の廃線跡は全線ではないですが、岩瀬土浦自転車道として整備されています。
真壁駅の地点は真壁休憩所として整備されていました。
休憩所の看板は意識的なのか、駅名標に似た形をしています。
2007年04月24日
静岡へ行った時の話 その13
草薙駅から再び静鉄電車に乗車して新清水駅に向かいます。
次の目的は廃止となった清水港線の跡を見ることでした。
清水港線は清水駅から美保駅までを結んでいた路線で、1984年3月31日付けで廃止となっています。
新清水駅から港の方に向かうと、廃線跡に出ることが出来ます。

この地点は清水港線の清水~清水埠頭間です。
この辺りの廃線跡は遊歩道として整備されています。
写真は清水駅の方向を見て撮っています。

今度は反対向きの清水埠頭駅方向を見たけ様子です。
遊歩道を清水埠頭駅の方向へ歩くと、エスパルスドリームプラザに出ます。
ここは貨物駅だった清水港駅の跡地になります。

海に面して謎のオブジェが立っていますが、これが港の船から材木をそのまま貨車に積み込むシステムがあった名残です。
全国でも直接貨車に荷揚げできた場所は少なかったようです。

このオブジェの名前はテルファークレーンと言います。
ここにも案内板があったので、そのまま全文を載せておきます。
テルファークレーン(木材積込用クレーン)
このクレーンは、昭和3年国鉄清水港線清水港駅に木材を貨物に積込む荷役機械として作られました。
当時の我が国には神戸、名古屋にしかない最新式のクレーンで、従前はベルトコンベアーで一日かけて1貨物車に積み込んでいたものが、わずか48分ですむようになり、費用も3分の1になりました。
その後、木材や石炭の荷役機械として活躍しましたが、時代とともにその用途もなくなり神戸や名古屋では撤去、清水港でも、昭和46年に使用停止になりました。
しかし清水港発展の歴史をとどめる遺産として、また日本近代産業の遺構としてたいへん価値あるものであることから、平成10年に補修工事が行われ、当公園のシンボルとして保存されることになりました。
この先の線路はちょっと痕跡が分からなくなっています。
さすがに歩きで時間もなかったので、この先の探索は諦めました。
次の目的は廃止となった清水港線の跡を見ることでした。
清水港線は清水駅から美保駅までを結んでいた路線で、1984年3月31日付けで廃止となっています。
新清水駅から港の方に向かうと、廃線跡に出ることが出来ます。

この地点は清水港線の清水~清水埠頭間です。
この辺りの廃線跡は遊歩道として整備されています。
写真は清水駅の方向を見て撮っています。

今度は反対向きの清水埠頭駅方向を見たけ様子です。
遊歩道を清水埠頭駅の方向へ歩くと、エスパルスドリームプラザに出ます。
ここは貨物駅だった清水港駅の跡地になります。

海に面して謎のオブジェが立っていますが、これが港の船から材木をそのまま貨車に積み込むシステムがあった名残です。
全国でも直接貨車に荷揚げできた場所は少なかったようです。

このオブジェの名前はテルファークレーンと言います。
ここにも案内板があったので、そのまま全文を載せておきます。
テルファークレーン(木材積込用クレーン)
このクレーンは、昭和3年国鉄清水港線清水港駅に木材を貨物に積込む荷役機械として作られました。
当時の我が国には神戸、名古屋にしかない最新式のクレーンで、従前はベルトコンベアーで一日かけて1貨物車に積み込んでいたものが、わずか48分ですむようになり、費用も3分の1になりました。
その後、木材や石炭の荷役機械として活躍しましたが、時代とともにその用途もなくなり神戸や名古屋では撤去、清水港でも、昭和46年に使用停止になりました。
しかし清水港発展の歴史をとどめる遺産として、また日本近代産業の遺構としてたいへん価値あるものであることから、平成10年に補修工事が行われ、当公園のシンボルとして保存されることになりました。
この先の線路はちょっと痕跡が分からなくなっています。
さすがに歩きで時間もなかったので、この先の探索は諦めました。
2007年01月12日
日鉄鉱業赤谷専用軌道の跡 その3
東赤谷付近まで戻ってくると昔は日鉄鉱業だったと思われる施設に出ます。
ここに至る直前まで道路に沿うように空き地が延びています。この空き地が軌道時代の線路跡です。
ここの軌道跡にはスノーシェッドがあったため、隙間が空いているところからしか列車は見られなかったそうです。

写真の施設に向かって、何となくヤードに使っていたのではないかと思うような空き地があり、専用鉄道時代は施設の前を通っていたのではないかと思えます。
また、軌道時代は施設の一段低いところにも何らかの施設が見えており、そちらから上がってきていたのかと思います。
ここら辺は私の勝手な推測にすぎません。
この施設より少し行ったところが東赤谷駅の構内だったはずですが、正確な位置が分からず違う場所を撮影していました。
その場所より道路を挟んで一段低くなっているところに、バスの転回場がありました。

バスの転回場が東赤谷のバス停であり、昔の東赤谷駅の構内の跡だったのですが、その時点で気が付かず全体の様子までは撮影しておりません。
ちなみにこの駅は、スイッチバックの駅として有名でした。
先まで行って赤谷駅の構内にスイッチバックで入ってきたのです。
ここに至る直前まで道路に沿うように空き地が延びています。この空き地が軌道時代の線路跡です。
ここの軌道跡にはスノーシェッドがあったため、隙間が空いているところからしか列車は見られなかったそうです。

写真の施設に向かって、何となくヤードに使っていたのではないかと思うような空き地があり、専用鉄道時代は施設の前を通っていたのではないかと思えます。
また、軌道時代は施設の一段低いところにも何らかの施設が見えており、そちらから上がってきていたのかと思います。
ここら辺は私の勝手な推測にすぎません。
この施設より少し行ったところが東赤谷駅の構内だったはずですが、正確な位置が分からず違う場所を撮影していました。
その場所より道路を挟んで一段低くなっているところに、バスの転回場がありました。

バスの転回場が東赤谷のバス停であり、昔の東赤谷駅の構内の跡だったのですが、その時点で気が付かず全体の様子までは撮影しておりません。
ちなみにこの駅は、スイッチバックの駅として有名でした。
先まで行って赤谷駅の構内にスイッチバックで入ってきたのです。
2007年01月11日
日鉄鉱業赤谷専用軌道の跡 その2
専用鉄道跡の道路を東赤谷に戻る途中に、川を渡る地点がありました。
川の上流側を見ると、木々の陰に鉄橋が残っていたので見に行ってみます。

こちらは専用軌道時代の鉄橋でした。
鉄橋の手前には細いレールが残っていました。
専用軌道は鉄道時代とは違い、この付近では山をトンネルで抜けていたのですが、山と山の間に川があるためその部分には鉄橋が架けられています。

鉄橋両サイドのトンネル入り口は、コンクリで塞がれていました。
トンネル直前にも細いレールが放置されています。

この鉄橋のすぐ横にも鉄橋が架かっていた跡があり、橋台が残っていました。
こちらの鉄橋跡は、軌道が路線変更をしたために廃止となった、旧線のものと思われます。

写真は山の中に残る鉄橋をサイドから撮影したものです。
この鉄橋の少し下にもコンクリートの構造物が川を渡っています。
そちらのものは、少し上流にある発電所の冬期点検用の通路となっています。冬になると雪が深く道路が使えないのです。
軌道がトンネルで山を抜けるようになったのも、雪の対策もあったのではないかと思われます。
川の上流側を見ると、木々の陰に鉄橋が残っていたので見に行ってみます。

こちらは専用軌道時代の鉄橋でした。
鉄橋の手前には細いレールが残っていました。
専用軌道は鉄道時代とは違い、この付近では山をトンネルで抜けていたのですが、山と山の間に川があるためその部分には鉄橋が架けられています。

鉄橋両サイドのトンネル入り口は、コンクリで塞がれていました。
トンネル直前にも細いレールが放置されています。

この鉄橋のすぐ横にも鉄橋が架かっていた跡があり、橋台が残っていました。
こちらの鉄橋跡は、軌道が路線変更をしたために廃止となった、旧線のものと思われます。

写真は山の中に残る鉄橋をサイドから撮影したものです。
この鉄橋の少し下にもコンクリートの構造物が川を渡っています。
そちらのものは、少し上流にある発電所の冬期点検用の通路となっています。冬になると雪が深く道路が使えないのです。
軌道がトンネルで山を抜けるようになったのも、雪の対策もあったのではないかと思われます。
2007年01月10日
日鉄鉱業赤谷専用軌道の跡 その1
本題に入る前に、7日から9日にかけて和倉温泉に行ってきました。突然温泉に行きたくなり和倉温泉に行くことにしたのです。
ついでに少しだけ「鉄」してきたので、そのうち報告します。
本題の方は、赤谷線の終点の東赤谷駅から先に日鉄鉱業赤谷専用軌道が延びていたので跡を見に行ってみたのです。
赤谷線を含めてここに来た理由ですが、どこに行くかを考えるため地図を見ていたら、赤谷に線路のマークがあるのを発見したからでした。
専用軌道は赤谷の先、鉄山という場所まで延びていたのですが、終点付近は草が多くまた、道もUターンが出来そうもなかったので、最奥部まで行かなかったため終点の遺構は発見できませんでした。
草に囲まれた道を進む途中で、コンクリ製の何かを壊した跡があったので、そこが何かの施設だったのかも知れません。

写真は鉄山付近の様子を撮ったものです。
この辺りは何もない山の中なのすが紅葉のポイントだったようで、紅葉を見に来た車と何台もすれ違いました。
ここの専用軌道は、1957年から1999年頃まで存在した軌間610ミリの軌道でした。
そして同じ区間には、前年1956年秋まで1067ミリの専用鉄道が存在していました。

専用鉄道の鉄橋が、鉄山の手前に残っています。

なかなか立派な鉄橋で、深い谷を越えています。
橋の上の状態も撮影しようと思ったのですが、草が繁っていたので断念しました。
ヘタをして崖下に転落したのでは洒落になりませんので。

鉄山まで続いている道路は、専用鉄道時代の敷地を転用したようで、4カ所のスノーシェッドが残っており、そのまま道路用として利用されています。
スノーシェッド内は鉄道用の単線分しか幅がないので、車のすれ違いが出来ません。
長い方の2カ所には両側に信号機が設置され、交互通行となっていました。
ついでに少しだけ「鉄」してきたので、そのうち報告します。
本題の方は、赤谷線の終点の東赤谷駅から先に日鉄鉱業赤谷専用軌道が延びていたので跡を見に行ってみたのです。
赤谷線を含めてここに来た理由ですが、どこに行くかを考えるため地図を見ていたら、赤谷に線路のマークがあるのを発見したからでした。
専用軌道は赤谷の先、鉄山という場所まで延びていたのですが、終点付近は草が多くまた、道もUターンが出来そうもなかったので、最奥部まで行かなかったため終点の遺構は発見できませんでした。
草に囲まれた道を進む途中で、コンクリ製の何かを壊した跡があったので、そこが何かの施設だったのかも知れません。

写真は鉄山付近の様子を撮ったものです。
この辺りは何もない山の中なのすが紅葉のポイントだったようで、紅葉を見に来た車と何台もすれ違いました。
ここの専用軌道は、1957年から1999年頃まで存在した軌間610ミリの軌道でした。
そして同じ区間には、前年1956年秋まで1067ミリの専用鉄道が存在していました。

専用鉄道の鉄橋が、鉄山の手前に残っています。

なかなか立派な鉄橋で、深い谷を越えています。
橋の上の状態も撮影しようと思ったのですが、草が繁っていたので断念しました。
ヘタをして崖下に転落したのでは洒落になりませんので。

鉄山まで続いている道路は、専用鉄道時代の敷地を転用したようで、4カ所のスノーシェッドが残っており、そのまま道路用として利用されています。
スノーシェッド内は鉄道用の単線分しか幅がないので、車のすれ違いが出来ません。
長い方の2カ所には両側に信号機が設置され、交互通行となっていました。
2007年01月09日
赤谷線 夏井川に架かる橋
さらに先に進むとサイクリングロードは終わりとなります。
赤谷駅のあった場所へ向かう途中、道路の右手の少しだけ高い位置に線路跡が並行する区間があり、線路跡が消えた先に突然橋梁が現れます。

この橋梁は夏井川という川に架かっている橋梁でした。

手前には築堤があったはずですが、すっかり削られて整地されて無くなっていたので、突然橋が現れたのでした。
赤谷駅のあった場所へ向かう途中、道路の右手の少しだけ高い位置に線路跡が並行する区間があり、線路跡が消えた先に突然橋梁が現れます。

この橋梁は夏井川という川に架かっている橋梁でした。

手前には築堤があったはずですが、すっかり削られて整地されて無くなっていたので、突然橋が現れたのでした。
2007年01月08日
赤谷線 米倉駅跡
高速道路を使って移動してきてやってきたのは、新発田市です。
ここからは新発田駅から分かれていた国鉄赤谷線の跡を辿ってみました。
新発田駅を出て少し経った廃線跡は、ふるさと創生基金を利用して立派なサイクリングロードに生まれ変わっています。
サイクリングロードのため、所々で道路とは交差するものの車は進入できないため、時間の関係もありじっくり見られないまま先に進みました。
最初にじっくり見ることが出来たのは、米倉駅の跡となりました。

駅のあった跡には米倉駅の駅名標が立っていました。
この駅名標は現役当時使用していたものではなく、後から立てたようですが、あればうれしくなります。

サイクリングロードの上から米倉駅の跡を見たところです。
ロードの右側に駅はあったようです。
写真は新発田駅方向を見て撮っています。

駅跡の近くには、踏切の車両通行止めの看板がまだ落ちていました。
ちなみにサイクリングロードの方は、この駅までは平坦な道ですが、この先から勾配区間に入り上り坂が始まります。
ここからは新発田駅から分かれていた国鉄赤谷線の跡を辿ってみました。
新発田駅を出て少し経った廃線跡は、ふるさと創生基金を利用して立派なサイクリングロードに生まれ変わっています。
サイクリングロードのため、所々で道路とは交差するものの車は進入できないため、時間の関係もありじっくり見られないまま先に進みました。
最初にじっくり見ることが出来たのは、米倉駅の跡となりました。

駅のあった跡には米倉駅の駅名標が立っていました。
この駅名標は現役当時使用していたものではなく、後から立てたようですが、あればうれしくなります。

サイクリングロードの上から米倉駅の跡を見たところです。
ロードの右側に駅はあったようです。
写真は新発田駅方向を見て撮っています。

駅跡の近くには、踏切の車両通行止めの看板がまだ落ちていました。
ちなみにサイクリングロードの方は、この駅までは平坦な道ですが、この先から勾配区間に入り上り坂が始まります。
2006年10月07日
葛生方面廃線跡探検 その4
葛生駅までやってきました。

この駅は今でこそローカル線の終点となっていますが、貨物の全盛期には一大ヤードとして機能しており、多くの貨車で賑わっていたのです。
残念ながら、今は客扱い用と保線用にわずかな線路を残すだけで、その他の部分は広大な空き地となっていました。
ヤード跡から振り返ると上白石貨物駅へ向かう線路跡が複数の線路とともに左に緩くカーブしていきます。

ふとそちらの方向を見ていたら、右手の山にトンネルらしきものが見えました。葛生の駅から見るとまっすぐな位置です。

そちらに向かって歩いてみると、やはり線路の用地であり、トンネル近くではバラストが残っていました。
この線路はいったい何なのでしょう?
昔の計画では、日光に向かう路線は佐野・葛生・鹿沼と抜ける案もあったようですが、それにしてもトンネルは新しい様な気がしました。
上の二つの写真は同行者の仮設住宅さんのを使用しています。
自分でも撮影したつもりだったのですが、後で見たら撮って無かったのでした。
この後は、葛生駅の駅舎や到着する電車を撮影して、小山に向かっています。

この駅は今でこそローカル線の終点となっていますが、貨物の全盛期には一大ヤードとして機能しており、多くの貨車で賑わっていたのです。
残念ながら、今は客扱い用と保線用にわずかな線路を残すだけで、その他の部分は広大な空き地となっていました。
ヤード跡から振り返ると上白石貨物駅へ向かう線路跡が複数の線路とともに左に緩くカーブしていきます。

ふとそちらの方向を見ていたら、右手の山にトンネルらしきものが見えました。葛生の駅から見るとまっすぐな位置です。

そちらに向かって歩いてみると、やはり線路の用地であり、トンネル近くではバラストが残っていました。
この線路はいったい何なのでしょう?
昔の計画では、日光に向かう路線は佐野・葛生・鹿沼と抜ける案もあったようですが、それにしてもトンネルは新しい様な気がしました。
上の二つの写真は同行者の仮設住宅さんのを使用しています。
自分でも撮影したつもりだったのですが、後で見たら撮って無かったのでした。
この後は、葛生駅の駅舎や到着する電車を撮影して、小山に向かっています。
2006年10月05日
葛生方面廃線跡探検 その3
東武鉄道の大叶線の廃線跡の探索です。
こちらは線路のあった場所がはっきり分からないのでした。
線路の跡かと思う場所はあるのですが、確定するものが見つからないのです。

そんな探索の最中に道路脇の柵にレールを使用しているのを発見しました。
かなり細いので大叶線のものではないと思います。
坑内のトロッコから転用したものでしょうか。
上白石駅の方に戻る途中、日鉄鉱業線と大叶線の分岐点に出ました。大叶線の方が先に廃止となっており、分岐した先の敷地には建物が建っていました。

この部分は複線分の敷地があり、東武の境界標と日鉄鉱業の境界標の2つがありました。
写真右の白い建物が大叶線の跡になり、左側には日鉄鉱業線が分岐しており、舗装された道路に沿って曲がっていきます。
カーブを曲がった先からは線路を跨ぐ高圧線が出てきて目印になります。
今度は葛生駅に移動です。
こちらは線路のあった場所がはっきり分からないのでした。
線路の跡かと思う場所はあるのですが、確定するものが見つからないのです。

そんな探索の最中に道路脇の柵にレールを使用しているのを発見しました。
かなり細いので大叶線のものではないと思います。
坑内のトロッコから転用したものでしょうか。
上白石駅の方に戻る途中、日鉄鉱業線と大叶線の分岐点に出ました。大叶線の方が先に廃止となっており、分岐した先の敷地には建物が建っていました。

この部分は複線分の敷地があり、東武の境界標と日鉄鉱業の境界標の2つがありました。
写真右の白い建物が大叶線の跡になり、左側には日鉄鉱業線が分岐しており、舗装された道路に沿って曲がっていきます。
カーブを曲がった先からは線路を跨ぐ高圧線が出てきて目印になります。
今度は葛生駅に移動です。
2006年10月04日
葛生方面廃線跡探検 その2
両方の線路跡を気にしながら葛生方向に進むと、住友大阪セメントの工場が見えてきました。
住友セメントの専用線はここまでセメントの原石を運んでいたのです。
セメント工場を回り込んで、専用線の跡を辿ろうと道を曲がった瞬間、踏切の黒と黄色の柵と架線柱が目に入りました。
この場所はちょうど線路跡であり、私のナビは古かったのでそこには日鉄鉱業線と表示されていました。
先の方にヤードらしきものが見えたので向かってみます。
向かった先には広大な草むらがY字形に広がっており、片側はその延長が住友大阪セメントの工場に向いています。
反対側はナビ上の日鉄鉱業線に繋がっていました。

ここのヤードにはレールはなかったものの架線柱は残っていました。
ここは東武鉄道の上白石貨物駅跡であり、昔はここで東武の大叶、会沢の2本の貨物線、日鉄鉱業羽鶴専用線の3線が分岐していたのです。
遠くを見ると腕木信号機も2本残っていました。
多くの写真を撮って今度は日鉄鉱業羽鶴専用線の探索に向かいます。

今度はナビに線路が載っているので跡を辿るのは簡単で、さらに当時から線路の上に高圧電線が通っていたので、遠くから見ても分かりやすくなっていました。

線路を追っているうちに貨車2両を発見しました。
珍しくレールの上に乗った有蓋車で、東武鉄道が所有していたワムのようです。
この貨車が置いてある場所は常磐信号所だったところで、転車台もあるらしいのですが、この時は気が付きませんでした。
終点まで一通り辿った後は大叶線を探索しに行きます。
住友セメントの専用線はここまでセメントの原石を運んでいたのです。
セメント工場を回り込んで、専用線の跡を辿ろうと道を曲がった瞬間、踏切の黒と黄色の柵と架線柱が目に入りました。
この場所はちょうど線路跡であり、私のナビは古かったのでそこには日鉄鉱業線と表示されていました。
先の方にヤードらしきものが見えたので向かってみます。
向かった先には広大な草むらがY字形に広がっており、片側はその延長が住友大阪セメントの工場に向いています。
反対側はナビ上の日鉄鉱業線に繋がっていました。

ここのヤードにはレールはなかったものの架線柱は残っていました。
ここは東武鉄道の上白石貨物駅跡であり、昔はここで東武の大叶、会沢の2本の貨物線、日鉄鉱業羽鶴専用線の3線が分岐していたのです。
遠くを見ると腕木信号機も2本残っていました。
多くの写真を撮って今度は日鉄鉱業羽鶴専用線の探索に向かいます。

今度はナビに線路が載っているので跡を辿るのは簡単で、さらに当時から線路の上に高圧電線が通っていたので、遠くから見ても分かりやすくなっていました。

線路を追っているうちに貨車2両を発見しました。
珍しくレールの上に乗った有蓋車で、東武鉄道が所有していたワムのようです。
この貨車が置いてある場所は常磐信号所だったところで、転車台もあるらしいのですが、この時は気が付きませんでした。
終点まで一通り辿った後は大叶線を探索しに行きます。
2006年10月03日
葛生方面廃線跡探検 その1
やっと休みに雨が降らない予報が出ました。
行きたい場所がたくさんある中で、仲間の仮設住宅氏と相談の結果、葛生方面の廃線跡と小山の高岳製作所の専用線を見に行くことに決定しました。
早朝に家を出発、最初の目的地として会沢に向かうことにしたので、東北道栃木ICに向かいます。
栃木ICを降り一般道を走りますが、目的の場所まで道が合っているのか確信はありませんでした。
何とか辿り着いたところはとある鉱山です。
鉱山にはホッパーがあり、近くには車両を格納する車庫にも見える長細い建物がありました。

隙間から中を覗くと、色々な物と一緒にトロッコが置いてあるのが見えたので隙間から撮影しておきます。
ここが住友セメント葛生専用線の跡だと思われます。
既に線路は無く、線路の代わりにベルトコンベアだと思われるパイプが2本延びています。
この先は鉱山の敷地のようなので進入は出来ず、来た道を戻ってちょっとウロウロと周囲を探索しました。

そのうち枕木が柵として利用されている場所を発見、近くの川にはそのままガーター橋が残っていました。
橋の隣には先ほどのパイプが通っています。
周囲の状況から考えると、住友セメント葛生専用線と東武会沢貨物線が併走している区間があったので、その跡と思われました。
ガーター橋が東武会沢貨物線、パイプが住友セメント葛生専用線でしょう。
住友セメント専用線の跡は徒歩でしばらく辿る事が可能です。
会沢貨物線との併走区間はすっかり花壇に変身しており、花がいっぱい咲いていました。
ガーター橋から葛生の方に向かうと互いの線路が分かれていきます。

写真で直進しているのが住友セメント専用線、右に曲がっていくのが東武会沢貨物線です。
しばらく辺りを撮影して葛生駅方向に向かいました。
行きたい場所がたくさんある中で、仲間の仮設住宅氏と相談の結果、葛生方面の廃線跡と小山の高岳製作所の専用線を見に行くことに決定しました。
早朝に家を出発、最初の目的地として会沢に向かうことにしたので、東北道栃木ICに向かいます。
栃木ICを降り一般道を走りますが、目的の場所まで道が合っているのか確信はありませんでした。
何とか辿り着いたところはとある鉱山です。
鉱山にはホッパーがあり、近くには車両を格納する車庫にも見える長細い建物がありました。

隙間から中を覗くと、色々な物と一緒にトロッコが置いてあるのが見えたので隙間から撮影しておきます。
ここが住友セメント葛生専用線の跡だと思われます。
既に線路は無く、線路の代わりにベルトコンベアだと思われるパイプが2本延びています。
この先は鉱山の敷地のようなので進入は出来ず、来た道を戻ってちょっとウロウロと周囲を探索しました。

そのうち枕木が柵として利用されている場所を発見、近くの川にはそのままガーター橋が残っていました。
橋の隣には先ほどのパイプが通っています。
周囲の状況から考えると、住友セメント葛生専用線と東武会沢貨物線が併走している区間があったので、その跡と思われました。
ガーター橋が東武会沢貨物線、パイプが住友セメント葛生専用線でしょう。
住友セメント専用線の跡は徒歩でしばらく辿る事が可能です。
会沢貨物線との併走区間はすっかり花壇に変身しており、花がいっぱい咲いていました。
ガーター橋から葛生の方に向かうと互いの線路が分かれていきます。

写真で直進しているのが住友セメント専用線、右に曲がっていくのが東武会沢貨物線です。
しばらく辺りを撮影して葛生駅方向に向かいました。
2006年08月01日
東北撮影旅行 その11
次は大船渡線の陸中松川駅に向かいます。
観光旅行なら、隣の猊鼻渓に行くのでしょうが「鉄」旅行なので通過です。
陸中松川駅にはセメント工場があり専用線があるはずでした。
川の向こうからセメント工場を見たときにはタンク車が見えましたが、駅に着くと線路はすっかり剥がされており、残念です。
しかし、陸中松川駅に来た目的はセメント工場ではありません。
以前はこの駅付近にある旧東北砕石工場(東北タンカル)からトロッコが荷物の搬送に使用されていたからです。
タンカルとは、石灰石紛(炭酸カルシウム)のことで、宮沢賢治が命名しており、宮沢賢治は東北砕石工場に技師として働いていたそうです。

実際に現地を見てみると、東北砕石工場から陸中松川駅の間には軌間幅の狭い線路がありました。
でもよく見ると枕木の幅は1067ミリゲージ用の物で、レールもトロッコに使用されるにしては立派過ぎる物でした。
現在の旧東北砕石工場は、国登録有形文化財となっており、石と賢治のミュージアムなど周辺が観光向けに整備され、その一環で線路も新しく敷設されてそこが遊歩道となっているのです。
東北砕石工場からは石灰石紛を508ミリゲージのトロッコで国鉄の貨物ホーム上に搬送。そのまま貨車に積める構造となっていたとのこと、その貨物ホームは今も健在です。

残っている陸中松川駅の貨物ホーム。
写真の右の線路が、新しく敷設された飾りの線路であり、その位置には国鉄の貨物用ホームの線路がありました。

工場の中には、昔搬送に使用したであろうトロッコが転がっていました。
なお、東北砕石工場の案内看板は、何故か鉄道で使用していた転轍機の表示部分を利用している物を何か所か見かけました。
何か理由があるのでしょうか?

写真の看板は、セメント工場の専用線があったと思われる位置に立っています。
今日の宿は一関駅前のビジネスホテル、初日と同じホテルに再び泊まります。
観光旅行なら、隣の猊鼻渓に行くのでしょうが「鉄」旅行なので通過です。
陸中松川駅にはセメント工場があり専用線があるはずでした。
川の向こうからセメント工場を見たときにはタンク車が見えましたが、駅に着くと線路はすっかり剥がされており、残念です。
しかし、陸中松川駅に来た目的はセメント工場ではありません。
以前はこの駅付近にある旧東北砕石工場(東北タンカル)からトロッコが荷物の搬送に使用されていたからです。
タンカルとは、石灰石紛(炭酸カルシウム)のことで、宮沢賢治が命名しており、宮沢賢治は東北砕石工場に技師として働いていたそうです。

実際に現地を見てみると、東北砕石工場から陸中松川駅の間には軌間幅の狭い線路がありました。
でもよく見ると枕木の幅は1067ミリゲージ用の物で、レールもトロッコに使用されるにしては立派過ぎる物でした。
現在の旧東北砕石工場は、国登録有形文化財となっており、石と賢治のミュージアムなど周辺が観光向けに整備され、その一環で線路も新しく敷設されてそこが遊歩道となっているのです。
東北砕石工場からは石灰石紛を508ミリゲージのトロッコで国鉄の貨物ホーム上に搬送。そのまま貨車に積める構造となっていたとのこと、その貨物ホームは今も健在です。

残っている陸中松川駅の貨物ホーム。
写真の右の線路が、新しく敷設された飾りの線路であり、その位置には国鉄の貨物用ホームの線路がありました。

工場の中には、昔搬送に使用したであろうトロッコが転がっていました。
なお、東北砕石工場の案内看板は、何故か鉄道で使用していた転轍機の表示部分を利用している物を何か所か見かけました。
何か理由があるのでしょうか?

写真の看板は、セメント工場の専用線があったと思われる位置に立っています。
今日の宿は一関駅前のビジネスホテル、初日と同じホテルに再び泊まります。
2006年07月26日
東北撮影旅行 その7
3日目は朝から晴れです。
釜石鉱山に向かって車を走らせます。
走っていく途中にJR釜石線のめがね橋があり、見た感じが良いので有名な場所です。
今回の旅行は地図とナビを併用していたのですが、お互いにめがね橋の位置が違っていました。
ナビの位置には道の駅があったので車を止めて撮影します。
残念ながら列車は来ませんでしたので、絡めての撮影はできませんでした。
橋梁の横には、軽便鉄道時代の橋脚・橋台が残っています。
この橋の形を見て、めがねなら輪っかが多いと思います。
地図の方の位置が正解だったのでしょうか?疑問を残したまま次に向かいます。
JR釜石線に沿って走っているので、途中の岩手二日町駅と足ヶ瀬駅にも寄ってみました。
足ヶ瀬駅では列車が来たので撮影、キハ100系の2連でした。
ここから線路と道路はルートが離れます。JRは仙人トンネルなどを抜けて陸中大橋駅まで峠をくぐっていきますが、軽便鉄道時代は峠を挟んで線路は繋がっていませんでした。
峠の荷物の搬送は、索道を使用して陸中大橋駅まで運んでいたそうです。
何処が軽便鉄道の終点か、また、索道の起点かははっきりしませんが、国道の仙人トンネル入り口付近を探索してみました。
すると旧釜石街道の仙人峠への道を発見したので、ちょっとだけ歩いてみます。

上の写真をクリックするとホームページに飛びます。
入ってすぐのところでレールを発見しました。
敷設してあったわけではなく土留めの柱として使用されています。
レールはあからさまに細く、トロッコか何かに使用されていた物のようです。
ちなみにレールは太さの違う2本を発見できました。
この峠から索道の痕が見えるという話なのですが、全行程3時間掛かるようなので諦めています。
釜石鉱山に向かって車を走らせます。
走っていく途中にJR釜石線のめがね橋があり、見た感じが良いので有名な場所です。
今回の旅行は地図とナビを併用していたのですが、お互いにめがね橋の位置が違っていました。
ナビの位置には道の駅があったので車を止めて撮影します。
残念ながら列車は来ませんでしたので、絡めての撮影はできませんでした。
橋梁の横には、軽便鉄道時代の橋脚・橋台が残っています。
この橋の形を見て、めがねなら輪っかが多いと思います。
地図の方の位置が正解だったのでしょうか?疑問を残したまま次に向かいます。
JR釜石線に沿って走っているので、途中の岩手二日町駅と足ヶ瀬駅にも寄ってみました。
足ヶ瀬駅では列車が来たので撮影、キハ100系の2連でした。
ここから線路と道路はルートが離れます。JRは仙人トンネルなどを抜けて陸中大橋駅まで峠をくぐっていきますが、軽便鉄道時代は峠を挟んで線路は繋がっていませんでした。
峠の荷物の搬送は、索道を使用して陸中大橋駅まで運んでいたそうです。
何処が軽便鉄道の終点か、また、索道の起点かははっきりしませんが、国道の仙人トンネル入り口付近を探索してみました。
すると旧釜石街道の仙人峠への道を発見したので、ちょっとだけ歩いてみます。

上の写真をクリックするとホームページに飛びます。
入ってすぐのところでレールを発見しました。
敷設してあったわけではなく土留めの柱として使用されています。
レールはあからさまに細く、トロッコか何かに使用されていた物のようです。
ちなみにレールは太さの違う2本を発見できました。
この峠から索道の痕が見えるという話なのですが、全行程3時間掛かるようなので諦めています。
2006年07月16日
東北撮影旅行 その1
予定と休みが微妙にズレたりしましたが、東北方面に撮影旅行に行ってきました。
11日の深夜に家を出発、仲間の仮設住宅氏を拾って北に向かいます。
東北道は所々雨が降っていましたが、交通量が少ないため順調に走れます。
何事もなく最初の目的地に着くのかと思っていたら、突然、インパネに普段表示されないエンジンチェックの文字が!パワーも落ちてしまいました。
エンジンが止まったわけでは無く、アクセルを大きく開けなければ普通の運転ができるので、一番近いSAまでゆっくり進むことに。
SAまで辿り着きとりあえずエンジン停止。電子制御系のトラブルの時に出る表示なので、湿気が多いために起きたトラブルだと予想。少し時間を空けて様子を見ることに。車も古くなるとあちこちにガタが出てきますからね。
ご飯を食べたりして時間を潰し、いよいよエンジン再始動。どきどきしながらセルを回すと、何事もなく始動し、表示も消えました。北行き続行です。
外も明るくなりすっかり朝。雨もあがりました。長者原のSAで6時になり、ここで東北道を降りました。

上の写真をクリックするとホームページへ飛びます。
今日の最初の目的は、仙北鉄道の廃線跡を辿ること。まずは登米駅のあった場所に向かいます。
登米駅の駅舎は、宮交登米バスの登米営業所として再利用されているのは、色々な本に出ているので有名です。
今日もちゃんと私達を待っていてくれました。
この旧登米駅前には仙北鉄道で使用していた機関車の車輪が飾ってあり、駅舎内にも当時使用していた備品がありました。
廃線跡を辿っていく前に、近くにあるJR気仙沼線の柳津駅を覗いていきましたが、残念ながら柳津駅は特に見るところのない普通の駅でした。
登米駅の近くには、国指定重要文化財である旧登米高等尋常小学校校舎もありました。かなり立派な建物です。時間が早くて中には入れませんでしたが、門の隙間から写真を撮っておきました。
この近辺には古い歴史を持った建物とかがあるようなので、それと一緒に改めて見に来たいと思います。
廃線跡の道を瀬峰駅を経由して築館駅まで探索開始です。あっちこっち迷いながら痕跡を探しますがなかなか見つかりません。
何となく廃線跡かなという道を走り交差点で停止したら、商店に上沼駅前の文字を発見。他に何か無いかと見渡したら、近くに貨車の廃車体がありました。
貨車は民家の物置として再利用されているようです。
妻面にはバッファーを取り付けていた跡もしっかり残っており、側扉にはうっすらと社紋も残っていました。
その後も廃線跡を辿りますが、地図に載っている廃線跡らしい道が見つからなかったりで苦労しました。
JR瀬峰駅までやってきました。
ここが仙北鉄道と国鉄との接続駅となっていましたので、仙北鉄道の跡を示す石碑も建っています。
跨線橋が仙北鉄道のホームにつながっていた部分は切られて板で塞いでありました。
以前は塞いだ板の色が跨線橋と違っていて切った跡がすぐ分かると、どこかのHPで見た記憶があるのですが、今は同じ色に塗ってありました。
築館駅までのルートも辿りましたが、こちら側は何も発見できませんでした。(旧築館駅の位置を勘違いしていた事が後で判明、これでは見つかりませんね)
仙北鉄道の探索は終了、陸羽街道を北上して、くりはら田園鉄道に向かうところでその1は終了です。
11日の深夜に家を出発、仲間の仮設住宅氏を拾って北に向かいます。
東北道は所々雨が降っていましたが、交通量が少ないため順調に走れます。
何事もなく最初の目的地に着くのかと思っていたら、突然、インパネに普段表示されないエンジンチェックの文字が!パワーも落ちてしまいました。
エンジンが止まったわけでは無く、アクセルを大きく開けなければ普通の運転ができるので、一番近いSAまでゆっくり進むことに。
SAまで辿り着きとりあえずエンジン停止。電子制御系のトラブルの時に出る表示なので、湿気が多いために起きたトラブルだと予想。少し時間を空けて様子を見ることに。車も古くなるとあちこちにガタが出てきますからね。
ご飯を食べたりして時間を潰し、いよいよエンジン再始動。どきどきしながらセルを回すと、何事もなく始動し、表示も消えました。北行き続行です。
外も明るくなりすっかり朝。雨もあがりました。長者原のSAで6時になり、ここで東北道を降りました。

上の写真をクリックするとホームページへ飛びます。
今日の最初の目的は、仙北鉄道の廃線跡を辿ること。まずは登米駅のあった場所に向かいます。
登米駅の駅舎は、宮交登米バスの登米営業所として再利用されているのは、色々な本に出ているので有名です。
今日もちゃんと私達を待っていてくれました。
この旧登米駅前には仙北鉄道で使用していた機関車の車輪が飾ってあり、駅舎内にも当時使用していた備品がありました。
廃線跡を辿っていく前に、近くにあるJR気仙沼線の柳津駅を覗いていきましたが、残念ながら柳津駅は特に見るところのない普通の駅でした。
登米駅の近くには、国指定重要文化財である旧登米高等尋常小学校校舎もありました。かなり立派な建物です。時間が早くて中には入れませんでしたが、門の隙間から写真を撮っておきました。
この近辺には古い歴史を持った建物とかがあるようなので、それと一緒に改めて見に来たいと思います。
廃線跡の道を瀬峰駅を経由して築館駅まで探索開始です。あっちこっち迷いながら痕跡を探しますがなかなか見つかりません。
何となく廃線跡かなという道を走り交差点で停止したら、商店に上沼駅前の文字を発見。他に何か無いかと見渡したら、近くに貨車の廃車体がありました。
貨車は民家の物置として再利用されているようです。
妻面にはバッファーを取り付けていた跡もしっかり残っており、側扉にはうっすらと社紋も残っていました。
その後も廃線跡を辿りますが、地図に載っている廃線跡らしい道が見つからなかったりで苦労しました。
JR瀬峰駅までやってきました。
ここが仙北鉄道と国鉄との接続駅となっていましたので、仙北鉄道の跡を示す石碑も建っています。
跨線橋が仙北鉄道のホームにつながっていた部分は切られて板で塞いでありました。
以前は塞いだ板の色が跨線橋と違っていて切った跡がすぐ分かると、どこかのHPで見た記憶があるのですが、今は同じ色に塗ってありました。
築館駅までのルートも辿りましたが、こちら側は何も発見できませんでした。(旧築館駅の位置を勘違いしていた事が後で判明、これでは見つかりませんね)
仙北鉄道の探索は終了、陸羽街道を北上して、くりはら田園鉄道に向かうところでその1は終了です。
2006年06月07日
新潟・富山撮影旅行 その6
時間が無いと言いながら、走っている道路に平行して加越能鉄道の未成線部分があるので寄り道しちゃいます。
この未成線部分はサイクリングロードになって残っていました。
このあたりから天気は晴れとなり気分も更に良くなります。
■加越能鉄道未成線跡のサイクリングロードの写真■
加越能鉄道は今でこそ鉄道線が全て無くなってしまっていますが、昔は富山と金沢を結ぶ壮大な計画があり、ここが計画線の跡なのです。
計画通りにこの路線が完成していたらどうなっていたのでしょうか?
撮影旅行はまだまだ続きます。
この未成線部分はサイクリングロードになって残っていました。
このあたりから天気は晴れとなり気分も更に良くなります。
■加越能鉄道未成線跡のサイクリングロードの写真■
加越能鉄道は今でこそ鉄道線が全て無くなってしまっていますが、昔は富山と金沢を結ぶ壮大な計画があり、ここが計画線の跡なのです。
計画通りにこの路線が完成していたらどうなっていたのでしょうか?
撮影旅行はまだまだ続きます。
